(2009年7月1日 0:47 寝る前に布団でノートに書いたことをそのまま、以下)
・これをオンラインでblogなどにのせるかのせないかわからないまま書き始める。
twitter(blogでも良い)
誰か自分以外の人間の目に留まり得るという一点は、やはりとても大きな差異となる。twitterでもblogでも最初の一文字をタイプし、それがひとつの文になり、まずい箇所を修正し、知らない人が見ても意味の解るものに仕上げてゆき、「よしこのへんでいいだろう」というところで送信し、ウェブの中に放り込まれる。きっと最初のときはすごい緊張感だったことだろう。もう今更、自分が最初に送信したのが何だったのかさっぱり解らないし、だからといってどうということもないが。
でもこうして一応ノートに書いてウェブにはどうだかわからないなどと思いながら書き始めても、何かもう頭のどこかでは(きっと当分書いてないblogにでものせるのかもな)などと思っている時点で、やはりこれはもう既に全く自分用のメモ書きとは違うものに”図らずも”なっている。
とこんな事書くと、もう完全にblogに載せるような頭になっているような気もするが、そういう現在の頭の中を整理する為に書いているという感じもあるので、どちらとも云えない。
人の文章を読む
小説でも何でも読むのが好き。人のブログでも、何か興味を惹かれればどんどん遡って読むこともある。で、ブログ等はもう書こうと思えば誰でも書ける状況になっているので玉石混淆、様々な内容・興味の対象・文章のわかりやすい人・とてもわかりにくい人、など居て、上手下手という事よりも自分が読みたいものであるかどうか。
難しくなってきた。
えー、人の文章を読んでいると「そこはそう思うけど、その次の部分はそうは思わない」という所が当然出てくる。またそれがあるから読むのであって「そうそうその通り。全て言うとおりで何の過不足もない」などというものがもしあれば、これはもう自分の頭の中とまったく同じものなので読まなくていい。
自分が書くこと
いろんな人の様々な文章をウェブでも小説でも際限なく読んでいると、自分が何かを書いたりすることが出来なくなる。「お、この人はこういう事を書いておもしろい。こういう人なのか」とか、また別の読み物で「はー、この人はまた違ったこういう見方をする人か」「この人はこうして他人と関わるのが上手だな」とか「場の空気を察知し、ポンとそこへ一つの話題の種を投げ込むのがすごくうまい人」もある。ここら辺は実生活でも同じような気がするが、俺の場合はやっぱり完全に聞き役の事が多くて、自分が話題の中心になってガンガン盛り上げ、場を取り仕切るなどという事はない。まず、無い。苦手だと思っているし、実際に苦手。
まとめ
全然、まとまらん。
総評
後半、やっとノートみたいになってきた。blogでもノートでも書き始めの時にはもやーっとしているのが、書いていくうちに自分が何を考えているのか、どういう事を考えてまとめたいのか、が徐々にはっきりしてきて、最後のほうで「あー、こういう事を考えていたのか俺は」と他人事のようにわかってくる。
文章の上手・下手は関係なく(もないと思うけど)何でもいいから書き始めてみて、自分の頭の中で渦巻いているものをボールペンであるいはキーボードを打ち、書き出してみる。書いたものを目で見る。目で見たものが再び脳にフィードバックされる。フィードバックされて、思考が少しずつ明確になる。それをまた書き出し、目で見、脳が察知する。解ってくるというのは、そういうことか。