suwaowa: 080729

2008-07-29

Social Media



何を指してSocial Mediaというのかという問いがまずあり、「答えは千差万別であり個々人で異なる」という前提のもと曖昧に書き始める。そもそも"Social"って単語が英語なので日本語に直すとどうなるのか、と考えてみるがピンとこない。社交の、社交化された、社交的な、どれも実感が湧かない。カタカナで"ソーシャル"の方がまだマシか。おそらく人と人とが繋がるような意味であろう。自分が完全に興味を失ったmixiなどに関してはもはや何の感想も持たないが、現在使っている様々なウェブサービスについて、自分が混乱しているので整理するために興味のあるところから書いてみるか。




friendfeed


ここしばらくずっとここにいる。使い始めて少し経つとこれは多分大きな転換点になると思い、他を休んで本格的にハマってみている。世界中の人達とこれほど簡単に言葉を交わせる場所が今まで無かったので、そこのところが何と言っても魅力である。前提として英語は必須である(と俺は思っているけど別にそうでなくてももちろん参加は出来る)。優れたtech blogを書いているブロガー自身の記事や勧める記事を読み、コメント欄で言葉を交わすことで得られるものはとてつもなく大きい。とはいえ日本語じゃないので勇気を出さないとなかなか気軽に打ち込めないが、頑張って打ってみて何か返答があるとそれはもう感激で、一喜一憂している。思い起こせば数ヶ月前にこれが始まるまでは有名なブロガーなんてRobert Scobleしか知らなかったのに、今では数えきれない程の優れたブロガー達と巡り会いそれぞれが持つ独自の現状分析と先を読む鋭い視点は日々すごい刺激になる。




問題


friendfeedだけでなくtwitterなども含め、このSocial Madiaの渦に巻き込まれることで得られる恩恵は計り知れないが、同時に問題も発生してきている。「ブログが書けない」「何を書けばいいのか」「書くことがみつからない」という嘆きを頻繁に目にする。交流・討論の場で様々な案件に関する自分の意見を書き、それに対する反論が述べられ、それについてまた意見を述べるという行為の連鎖がその嘆きを惹起していると考えられる。更に、時間が許す限り常にそこに居なければ流れに乗り遅れてしまうという強迫観念。これは一気に広がった急激なSocializationからくる一時的な混乱であり、ある期間が経過すれば自然に落ち着くものではないかと思っている。考えれば考えるほど他人事ではなくそれらの問題に自分が直面していることに気付くのであるが。




tumblr


7/11からtumblrを休止している。2007年の3月から2008年の7月まで1年4ヶ月間ほぼ毎日楽しみに休むことなく続けてきたものを、思うところがあり急に中止してみる。tumblrのdashboard内では、言葉を交わすのは野暮みたいな(俺が勝手に思ってるのかもしれないけど)そういう風潮があって、ただただ目に飛び込んでくる写真や画像を無言で延々とreblogする。またはwebの何処かでみつけてきたものを自分のtumblelogに愛情をもって無造作に放り込む。これだけのシンプルな行為がなんとおもしろいことか。またそこに参加している人達がどんどん創り出すreblogツール。この道具が無いとtumblr体験は全く違うものになっていただろう。頭の整理がついたらまた潜るに違いない。




まとめ


なにも纏まっちゃあいないんだけど。いま、正直よく解らない感覚でfriendfeedに写真などを投稿してみたりしている。写真を表示するならtumblrの方が絶対きれいだし、頭のキレるプログラマー達による優れた道具のおかげで共有(reblog)する為の無駄な行為が"t一つ"という極限にまで削ぎ落とされたその美学もtumblrそのものが本来持つ簡潔さと見事に調和している。一方、friendfeedのような強大な社交場が出来るとdashboard内部だけでぐるぐる廻ってる状態から外へ出してもいいんじゃないだろうかという気持ちも出てくる。実際tumblrのdashboard内で得た無数の強力なイメージ群には言葉による説明など不要であり、見れば解る。またはさっぱり解らない。



だけど、違うかな、あれをfriendfeedに載せるってのは。



日々使うものを何か一つのウェブサービスに絞るなんて無理な話で別にそんなことがしたい訳でもないし出来ても何もおもしろくない。興味があるのはweb全体がどのように変化しながらどこに向かって進んでいくのかという一点だけなのに、激流に呑まれるとその一点をも見失ってしまう。